今日は妻方の家族の集まりに参加した。

普段会わない人ばかりで、尚且つ人見知りな僕は置物のように静かにかつお利口に…を心掛けた日を過ごした。

お母さんが風邪で参加できなかったのが残念だった。お弁当を届けるついでに、みかんやお粥など今すぐでも比較的口にしやすそうな食べ物を買って、帰り道に奥さんと一緒に届けた。

年末年始、やたら海鮮まみれだったので流石に今日はとりあえず海鮮はやめときたい。

外食も正月休みが多いだろうし…と言う事で、知人からお年賀に頂いた千葉の「かいざん」のラーメンをいただく事にした。

今日はこんな感じのなんて事ない1日だった。

奥さんは今日もなんだかんだ動きっぱなし、僕は置物のように(でも気は一応使ってるのだ)過ごして2人ともなんかわからん疲労感でいっぱいの日だった。

そう言えば1号との何気ない話の中で、初詣に行くのが嫌だと話していた。その話を聞いてやっぱり1号とは奥さんを除けばかなり感性が近い気がした。

と言うのも、体裁としては僕も年末年始というのは意識しながら生活しているのだけれど、重要な何かを決めたり何かをスタートする時というのは旧暦の元旦を境として今年、来年の区別をしている。

なので、旧暦を基準にするのならば全然新年ではなく、あくまで感覚としての話だけど初詣というのは違和感まみれなのだ。

なぜ?という理由はなく、その方がしっくり来るからなのだ。

ちなみに今年は1月29日が旧暦の元旦にあたる。

従って初詣は「行くのなら」1月29日あるいは30日あたりに行きたいと思う。

ここで毎度お馴染みAIちゃんに聞いてみましたよ。

旧暦と新暦(太陽暦)が異なるのは、暦の基準となる動きが太陽か月かという点です。

旧暦は月の動きを基準としており、1年は354日でした。一方、新暦は太陽の動きを基準としており、1年は365日です。そのため、旧暦と新暦では暦と季節に1年で11日のずれが生じます。このずれを調整するために、約3年ごとに1年を13か月にしていました。

旧暦は実際の季節感に即した暦だったため、農耕に適していました。一方、日本が西洋化を進めるにつれ、欧米の暦と統一するために太陽暦への改暦が行われました。

旧暦から新暦への改暦は明治5年(1872年)11月に発表され、明治6年(1873年)から太陽暦が採用されました。この改暦により、旧暦の明治5年12月3日が新暦の明治6年1月1日となり、季節が約1か月早まりました。そのため、桃の節句に桃が咲かず、七夕は梅雨の最中というずれが生じました。

う〜ん。やっぱりこれを読むと旧暦のほうがしっくり来ます。

人の身体って太陽というよりは月の満ち欠け、そして潮の満ち引きにすごく影響を受ける。

女性の月に一度の大変な時もそうだし、何なら人の生き死にも大いに月(潮)の影響を受ける。例えば、子供が生まれる時は帝王切開などは例外として自然分娩である場合、満潮に向かっていく最中に産まれる事が多い。

人が亡くなる時は逆で、干潮に向かっていく時に亡くなるケースが多い。

潮の満ち引きは月の影響によるものですからね。

ここのところの例年になく暖かい1月というのも旧暦に当てるとまだ12月に入ったばかりなので、そう思うとなんだか合点が行くのだ。

つまり本格的な寒さはこれからなんだろうな。

でね、アジアの多くの国(中国・韓国・インドネシア・ベトナム・マレーシア・モンゴルなど)は今日も旧暦を採用していて、1月1日は世界に合わせて新年と言うんだけど、彼らにとって本当に新年を祝う日は春節と言って旧正月を祝うんですよね。

何でもかんでも欧米化するんじゃなくて、こう言う部分はいつの時代になっても自国の歴史を大切にすべきで、そういう意味でも僕は旧暦をこれからも重んじた行動にしたいなと思う次第なのです。

そんな訳で1ヶ月あるいは3ヶ月とかの単位で何かの期限を設ける場合

その設定した日が可能ならば満月に向かっていく日であるかどうかを見てみる。1日単位ならば、満潮に向かっていく時間をゴールセッティングする事をお勧めしたい。

更に話題は飛び、本日の締めとして、奥さんが寝る前にいろんな事を話をした。

奥さんは僕と同じく1日の終わりにその日を振り返って感じた事、思った事を話して、改めるべくは明日から気をつけて行こう、良かった事はそこで再び喜びを噛み締める。そんな内省をしたり、共有をしたい人だ。

たぶん、僕と奥さんが上手くいく原因のひとつはこれじゃないかと思う。

この時間は互いに「これを言うのはやめておこう」というのはない。

何なら日頃、特段事細かに言ったりしない事やこれからやろうとしている仕事にせよ、自分の考えにせよ、そうした話はこの時間にすることが多い。

誰しも他者から見てその人の表に見えている部分なんてのは氷山の一角に過ぎず、その内側では誰しももっと色んな事を考えている。そこをそもそもオープンにして話し合ったりして理解し合って行く事が減ってきたり、あるいは付き合いが長くなってくるにつれ、阿吽の呼吸で言わずとも解るだろうで流してしまう事が多いのではないだろうか。

夢を壊すようで申し訳ないが、何も言わずとも相手を理解する事はまず無理だ。

なぜなら別人格であり、夫婦とは言えど所詮は他人だからだ。

育ってきた環境や背景も全然違う訳だから、そこで育まれる価値観や物事の基本的視点や考え方も基本的には違うのだろうと思う。もちろん願わくばそれらは近しい事がベストだし、だからこそ一緒にいるのだろうけれど、日々の物事の受け止め方や感じ方も毎度毎度百発百中同じなんてのはあり得ないと思う。

でも、これは当たり前のことでありながら軽視されている事が多いような気がする。

うちの奥さんはこの事を理屈じゃなく感覚で重要な事だと理解しているのだと思う。

だからしばしば折に触れてこういう話し合い(そこまでシリアスにしてないけど)の機会は互いに設けるようにしている。

そうすると、その日の奥さんが感じていた事と僕の感じていた事はまるっきり違っていたりする事も多々ある。今日なんかも全然違っていた。

ちょっとだけ紹介すると、奥さんは奥さんで忙しくしていつつも

僕があまり普段顔を合わさない人たちの中にいてとても気疲れしたんじゃないかと。そりゃまぁ確かに気疲れはしますよ。

ただ、その最中苦痛に感じていたり、居心地悪いなと思ってたのかと言うと全くそうではなく、一人一人人間観察みたいな事を半分寝そうになりながらやってた笑

1号はものすごく全体の雰囲気や空気を気にしていて、自分を落として(3枚目を演じて)全体の雰囲気作りを良くしようとしてるな・・・。2号は全体にとって大切な事(食事の片付けや飲み物が空になってるグラスに飲み物を入れて回ったり等など)にすごく気を遣っているな。

こいつは自分のことしか喋らへん奴やな、こいつは自分の身内の事しか考えてへんななどなど。

そんな話から、なぜこれから注力して行こうとしている仕事に対するそもそもの動機付けとなる理由の根っこを考える更に根本に内包する思いなどまで話をした。

そうすると、僕のやろうとしている事に対して共感するしないはさておき、理解はしてくれるだろうと。

結構、上記は僕がすごく重視している事だ。

これを折に触れて話をしておくと、前述の通り育って来た環境や今日まで奥さんが社会人といて仕事をしてきた立場や環境は全然違うわけだから僕が100言った事を全て共感するなんて事は無いと思う。

僕ももちろん、間違った判断をしてしまったりする事もあるだろうし、何なら話している自分自身の中でさえ腑に落ちてない事だってそれはその時最良だと思っている選択肢を選んでやってる事だったりする。

だから、全部共感してくれ俺と同じ考え方を持ってくれとは思わない。

一方で、僕がなぜそう思っているのかという考えの根元については理解していて欲しいと思っているし、これは伝えないと理解しようが無いと思う。

そんな訳で、今日のブログも一発目の公開は全然中身も何もないペラペラな内容だったのだけれど、奥さんとの二人会議を終え、夜も更けて来た真夜中になると更新更新で文字数も多くなって行くのだ。

そんな訳で今日はというか今日もまとまりなく突如として終わるのだ。